今日は家族で近くの
MOVEX三好へ映画を見に行きました。
私と奥さんは「デスノート the Last name」、上と下の娘は「劇場版どうぶつの森」、真ん中の娘は「劇場版BLEACH ブリーチ」と好き勝手バラバラに見たいものを見ることにしました。
奥さんが午前中にチケットを買いに行ったのですが、夕方の上映時間にやっと希望の席を確保できるという盛況ぶり。映画は旬に映画館で見るということが、多くの人に定着してきたようです。
デスノート the Last name 2006年12月17日(日)MOVEX三好 Theatre 2
週刊少年ジャンプに連載されたコミックが原作ですが、私は全然知りませんでした。デスノートを初めて知ったのは、後編であるこの作品の公開に際し、前編がテレビ放映されたのを見た時です。
前編を見たときに感じたのは、ストーリの面白さと、夜神月(やがみライトと読む)ことキラ(藤原竜也)とICPOが東京に送り込んだL(エル)(松山ケンイチ)のキャラクターの魅力。特にストーリは、緻密な関連付けがなされていて、そうだったのかという意外さがあるし、キラとエルの頭脳戦も文句無く楽しめました。もちろん、コミックを私は見ていないので、それと比較すればいろんな意見があるのでしょう。素晴らしいコミックを映像化すると、コミックに心酔したファンはガッカリすることが多いのはよくあることです。
前編のそういう印象から、ぜひ後編も見たいという思いが強くなって、同じ見るなら今回は劇場で見ようと思って、今日見てきたというわけなのです。
期待にたがわず、後編である「the Last name」もその面白さは継続されていました。特にL(エル)の存在が人間的な部分も含めて魅力を増しているように感じました。しかし、あえて前編と比較すると、後編は前編ほどのインパクトはなかったように思います。
何故なのか考えてもどこがどうだという致命的な部分は感じないのですが、たぶん、デスノートと死神というものに慣れてしまい、前編で初めて出会った新鮮さが無かったということもあると思います。
あえて物足りなかったところを言うならば、後編は全体的にトリックを複雑にこねくり回しすぎのように思え、その結果、偶然性に頼っている部分が多いように感じます。それが頭脳戦のリアリティに欠けるんじゃないかと思いました。
例えば、海砂(戸田恵梨香)が夜にキラが埋めたデスノートを取りにいく場面も、突然耳元で告げたことにもかかわらず、埋めた場所に行き間違いなく掘り当てるというのも、ホントかいなと思ってしまいます。ライトの綿密な読みではあるとしても、高田清美(片瀬那奈)の行動もライトに都合よく進みすぎるところがあります。
とは言いつつ、複雑で少しでも油断するとわからなくなってしまいそうなテンポ良い流れ(私は途中でデスノートが何冊あるのか混乱してしまいました)、登場人物のいろんな意味での魅力、予想を裏切るどんでん返しのラストシーンなど、娯楽映画として充分楽しめる内容ではあります。2時間20分があっという間に終わってしまったのは、私が充分楽しめた証拠だと思います。
一番の見所であり書き留めておきたいのは、そのラストシーンなのですが、これはまだ見ていない方への礼儀として、つらつらと書くことはやめておきます。
ライトではなく私のところで死神リュークがデスノートを落としたとしたら・・・、私もたぶん、ライトのような使い方に正義としての「美」を感じてしまうだろうなと思います。必殺仕掛人や必殺仕置人、桃太郎侍などが人気になったように、世の中がしくみとして成敗できない悪を懲らしめるというのは、庶民の憧れですからね。
つまり、『人のため平和のためには、悪い人間を抹殺しても良い。』という理屈。
しかし、それを「美」と感じないのがL(エル)であり、ライトの父親、夜神総一郎(鹿賀丈史)。
『人のため平和のためであっても、人の命をむやみに奪うことは許されない』
この考えの違いが、戦争に向かうのか戦争を回避するのかという一線なのかも知れません。世論がキラをたたえ神と呼ぶとするならば、それは恐ろしいことなのかも知れません。
どちらの正義が正しい正義なのかは自明です。にもかかわらず、最後までそこに疑問を投げかけるような台詞をライトの妹・夜神粧裕(満島ひかり)に喋らせているところに、現在の社会の問題の根の深さを訴えているように思います。
ところで、一番魅力的なキャラクターであったL(エル)が、スピンオフ企画として主人公になった映画が来年製作されるようです。公開はさ来年のようですが、どんな物語になるのか、ちょっと楽しみです。