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2008年05月04日(日)
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「相棒−劇場版−」を奥さんを誘って見に行って来て、今帰って来ました。
私は根っからの「相棒」ファンです。 テレビ「相棒」では、杉下右京と亀山薫はじめとする登場人物のキャラクター設定と、メッセージ性のある高品質なストーリについつい引き込まれてしまっています。当然、中にはつまらないストーリもありますが、そういう回でも相棒二人のやりとりや個性だけでも見ごたえはあることが多いです。 そういう「相棒」ファンである私が見た今回の「相棒−劇場版−」。 誤解を恐れずに言うならば、期待はずれ。 確かに事件のスケールの大きさと強い政治に対するメッセージは評価できます。 でも、あれは杉下右京でなくてもいいし、亀山薫でなくてもいい。 右京の智恵の切れ味はチェスに限られ、それ以外の部分はあまり根拠の無い想像みたいなことになっています。大きな事件にしては右京のチェスでの推測に対して動くのが亀山だけというのも不自然。 つまり、事件を大きく設定しすぎたために、いつもの杉下右京と亀山薫の犯人を含めた絶妙なやりとりが、この劇場版ではまったく生きていないような気がします。 最後の真実がわかる場面でも、片山は自分の欲があっての世間への発表だし、右京がよむ手紙も内容はともかく、あそこで読むことにスムーズな流れを感じません。本来ならば、被害者や遺族の思い推察し涙する最後のシーンでも、普段の「相棒」ならば、あんな直接的なメッセージで泣かせるのではなくて、もっとさり気無い行動や会話で涙を流させてくれます。 面白い映画ではありますが、私の中での「相棒」とは少し観点が違っていたように思います。これで本当に大ヒット映画なのでしょうか・・・。事前のコマーシャルによるところが多いような気がします。 「相棒」ファンだから、あえて書きましたが、これからも「相棒」ファンであることに間違いはありません。 今から、録画しておいた3日夜放送の土曜サスペンス劇場の「相棒・名コンビ誕生篇」を見たいと思います。 |
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2007年07月06日(金)
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悪人 吉田修一 2007年4月30日発行 朝日新聞社
久しぶりに楽しめる本でした。 大きくも無い普通の大きさの活字にもかかわらず420ページという長編ですが、たった三夜で読み切ってしまいました。 タイトルが「悪人」、そして保険外交員である若い女性が山中で殺されるという事件から始まる物語なので、事件の真相以上に作者がどんな「悪人」を描こうとしているのかということが、この小説を読み続ける中で一番の興味となります。 物語は、時間軸に沿って各登場人物の過去の状況を第三者が語るという形の短編形式でテンポよく描かれていきます。これは、この小説が朝日新聞に連載されていたということで、日々読者を惹き付ける構成となっていたからなのでしょう。途中からその状況を語る短編の間に、時間軸を現在に戻した登場人物たちが自らの口で語る談話形式の話が入ってくるようになります。全体のリアルで細かな情景描写と相まって、まるでテレビのドキュメンタリーを見ているような気にさせられて、物語が進むに連れて次へ次へとのめりこんでいってしまう魅力があります。 読み続けていくと、だんだんと登場人物の関係、性格、事件の真相などが明らかになっていくのですが、タイトルとなるほどの「悪人」や、「悪人」と比喩されるようなものはまったく出てきません。それどころか、登場人物がだんだんと人間らしくなってきて、けして品行方正、真面目とは言えないまでも、弱い部分を持った、どこにでもいるような愛すべき人間達に思えてきます。自分勝手な佳乃や人の心を察することができない増尾も、腹立たしさは感じるものの「悪人」には程遠い感じがします。 420ページの残りページが少なくなってきても、まったく「悪人」の気配すらありません。勘のいい読み手ならばその意味を少し前で気付きはじめるのかも知れませんが、私は最終ページの最後の行で、「悪人」というのをタイトルにしている理由がようやくわかったという次第です。この最終行をこういう形でさっと終わらせていることで、よけいにそのインパクトが強く感じられて、「そうか、やられた」という気持ちにさせられました。すばらしいエンディングだと思います。 相手の事を思い自分を悪人に貶めてしまうということは、とても切ないことです。そこまで相手のことを思うというのは、その相手は大切で大切でたまらない人であるわけです。大切な人の心や今後の人生を救うためとはいえ、その大切な人から自分に対する好意の気持ちを抹殺するということは、永遠に大切な人を捨去るということに他なりません。しかもそのことは自分の胸の中にしか真実は残らないわけで、胸が締め付けられる思いになります。 この小説の真実は読者の感じ方次第ですが、それはどうでもいいことかも知れません。「悪人」という立場をとったことで、母は心の負担を無くすことができ、恋人は元の穏やかな生活を取り戻すことができたという事実があればいいと思います。 こういう「悪人」に比べると、巷で俗にいう「悪人」なんて、なんと自分本位で情けない亡者なのかと思ってしまいます。 文句無しに没頭して楽しめる事ができた小説でしたが、少し気になるところもありました。登場人物の性格の一貫性に違和感を感じるところ(心の変化があったとしても)、珠代が「光代のことをお姉ちゃんって呼ぶことはなかですね」と談話で言っているにもかかわらず、最初「あ、そうだ、お姉ちゃんも行く?」という会話があるところ、など。意図的なのか、そうならば何か意味があるのか、一度読んだだけではまだまだ掴みきれない部分があるのかも知れません。結末を知った状態で、それぞれの登場人物の振る舞いの意味にあらたな発見をするために、もう一度最初から読んでみたいと思ったりします。 |
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2007年05月20日(日)
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博士の愛した数式 2007年5月19日(土)フジテレビ系土曜プレミア
2005年度作品。 原作は2004年の本屋大賞受賞作であり、映画は2006年1月公開の作品です。 私は、昨夜のテレビ放映ではじめてこの作品に触れたことになります。 円周率πと自然対数の底であるネイピア数eと虚数単位iの調和。 円周率は円の直径と円周の比として意味を持ち、ネイピア数は指数関数とその接線とx軸でできる三角形の底辺で図形的意味を持ち、虚数は二乗してマイナス1となる架空の数値として定義されている。それはまったく別の物差しで意味を持つ値であるにもかかわらず、それが実は簡単な自然数1で結ばれている。 それは、博士が愛したオイラーの等式。 この映画は、博士(寺尾聡)と家政婦(深津絵里)とその息子の暖かな気持ちが感動を与えてくれて、優しい気持ちになることができます。博士の記憶が80分で消えるという悲しさは、悲劇的ではなく日常の出来事でほろ苦く切なく表現されています。「君の靴のサイズはいくつかね?」「君には子供がいるのかね?」の繰り返しが面白くも実はとても悲しい。数字でしかコミュニケーションをとれない不器用な博士ですが、その話は小難しい話ではなく楽しく数字に引き込んでくれる優しい話ばかり。数字の話が人生の話に感じたり、壮大な宇宙の話にも聞こえたりします。全体が暖かい心で流れるがゆえにその奥にある悲しさが余計に心に滲みて目が潤んできてしまいました。 友愛数、完全数、そして超越数と虚数を1で結びつける式。一見、無関係に見えるものたちにも、それを解きほぐしていくと実は美しい必然の関係が裏に潜んでいて、それは人との関係でもあてはまるように思えます。数字や証明の美しさも、花や星空の美しさと同じように人が感じる美であり、その美は人の生き方や考え方にも通じます。生きていくうえでは必要ないんじゃないかと思われる数学も、こういう考え方で見てみると、きっともっと数学に対する見方が変わり人々の心の中に残るのかも知れません。知識というものの素晴らしさとその受け取り方がとても大事だということを感じました。 そういう中でのオイラーの等式は、この映画では特別な意味を持っています。博士が一番愛する式であるとともに、過去の辛い思いを表す式になっています。eのπi乗は-1。この-1は博士と博士が愛したNが背負った悲しい数字でもあるのです。 数字や数式が一切の迷いなく凛としているように、この映画自体も凛とした気持ちよさと優しさが感じられるとてもよい映画だと思います。 |
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2007年01月20日(土)
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SHINOBI 2007年1月19日(金)日本テレビ系金曜ロードショー
2005年松竹・日本テレビ他作品。 原作は1958年の山田風太郎の「甲賀忍法帖」。初めての忍者バトルおいうことであるが、先に横山光輝の「伊賀の影丸」を知った私は、忍者バトルと言えば「伊賀の影丸」の専売特許に思えてしまいます。 この映画はDVDも持っているのですが、見る機会が無いまま、今夜テレビ放送を先に見てしまいました。この映画、聞いたところによると、日本版最低映画を決める「いちご賞」で2005年ワースト1を受賞(?)したそうです。 そんな評価の映画だそうですが、私はこの映画とてもいい映画だと思いました。久々にもう一度見てみたいと思わせられました。特に泣けるとか笑えるとかいうものではありませんが、心に伝わるものがあってよく作られている作品だと思いました。 甲賀と伊賀の忍者の個性も良く考えられていますし、対戦も非現実的なところはありますが、超能力人間の戦いと見れば特撮とあわせてなかなか楽しめます。中には、あまりにもあっけなく倒されてしまい、あれっと思う部分もありましたが、2時間の中で「戦いの面白さ」と「戦いは無意味」というメッセージを伝えるためには仕方がないのかなと思います。 主人公である朧(仲間由紀恵)と弦之介(オダギリジョー)の恋愛も、ベタベタ流れるのではなくサラリと描いていることにより、その愛情の深さが伝わってきます。無駄な戦いを虚しく思い、避けられぬ朧との戦いでは朧の命を優先する。さらに、おたがいの里が穏やかに暮らせるようにその思いを朧に託す。かっこいいですよ。 蛍火(池尻エリカ)の存在の意味、薬師寺天膳(椎名桔平)の本当の死を選ぶ意味とその悲しさ、陽炎(黒谷友香)の愛する人と交えぬ切なさ、悲しいまでに戦うことだけに存在意義を求めようとする筑摩小四郎(虎牙光揮)や夜叉丸(坂口拓)。よく見るとキラリとしたほろ苦い個性があります。 それぞれの得意術(技)も画一的ではなく工夫が感じられます。不死身の薬師寺天膳は「伊賀の影丸」の天野邪鬼、人の顔を写し取る如月左衛門(木下ほうか)は「仮面の忍者赤影」の傀儡陣内、朧と弦之介は、「地球ナンバーV7」や「バビル2世」での超能力を思い出しました。必然的に戦いがその得意技で単一的になってしまうところは少し残念ではありますが。 そういう楽しめる部分とあわせて、見る人間に問いかけ続けているのが「戦う役割の人間」と「戦い」の意味。どの戦いひとつとっても、勝って笑う、喜ぶと言った場面はありません。戦わずにいられぬ自分たちと戦うことの虚しさをうまく全体を通して伝えていると思いました。ラストシーンも、愛するものたちのために怒りで戦い抜くというのでは無く、自分の身を持って思いを伝えるという地味ながら強烈な結末であるのもいいです。多少ストーリに無理が生じても、ここまで一貫して「戦い」の無意味さを伝えてくれるのかということで、見終わったあとにある種のすがすがしさや嬉しさを感じます。 仲間由紀恵が好きだからというわけではありませんが、誰がなんと言おうと私はこの映画はとてもいいと思いますし、好きです。 いろんな意見があっていいし、どの意見が正しいとか偉いというわけではありませんからね。 |
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2007年01月01日(月)
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相棒〜バベルの塔〜 2007年1月1日(月)テレビ朝日系元日スペシャル
「相棒」はドラマ好きな私の中でも好きなドラマのひとつです。水谷豊、渡瀬恒彦、橋爪功のドラマには目が無いのです。 その「相棒」の中でも、今夜の元日スペシャルはとても良かったです。ここにすぐに書いてしまいたいと思わせるほどの秀作。ストーリの緻密さもさることながら、涙腺にダイレクトに訴えるシーンが盛りだくさん。娘を人質に殺人を強いられる女性元刑事と、妹を死に追いやられてしまった犯人兄妹、ともに身内を思う気持ちとやりきれなさや怒り、悲しみ、そういうものがとても強く伝わってきました。 そういう基本的な組み立てだけでもけっこう心打つものがあるにもかかわらず、さらに感動を感じさせる細やかなシーンが散りばめられています。 娘を思い苦悩する楓(大塚寧々)、はるか(佐々木麻緒)にサンドイッチをあげる犯人の五十嵐(杉本哲太)、爆発した小屋から助けられた時手話でありがとうを繰り返すはるか、楓が屋上で自殺しようとした時にそれを狙撃で阻止したスナイパー日野(寺島進)、はるかの耳が不自由になった原因をあくまで自分のせいとする和久井(遠藤章造)、その他にもホテルの磯部支配人(梨本謙次郎)など、それぞれの登場人物の優しさがにじみ出ています。 小野田官房室長(岸部一徳)、鑑識の米沢(六角精児)、大河内監察官(神保悟志)も一言の台詞の中にその個性の味がよく表現されていました。 ドラマはストーリが大切ですが、登場人物像がしっかりしていると、そのストーリがさらに生きてきます。今回の遠く離れた観覧車からの狙撃のような非現実的な想定も「かっこいい」と許せてしまいます。 なんだかんだ感動の理由付けをしているような気がしますが、幼い娘が出てくると、私にとってはそれだけでダメなんですよね。特に佐々木麻緒ちゃんの表情は可愛らしすぎてずるいですよ。 少し冷たくなっていた自分の気持ちが、このドラマでちょっぴり暖かくなりました。 最後にタイトルの「バベルの塔」について。 このタイトルは、「超高層ビル」と「言葉」にかけたタイトルとなっています。 私が「バベルの塔」を初めて知ったのは、私の好きな漫画家、横山光輝の「バビル2世」です。他の星からきた高度な科学技術力を持つ宇宙人が宇宙船の故障で地球に不時着し、それを仲間に知らせるために当時のニムロデ王に近づき天空高く作らせようとした巨大な塔がバベルの塔でした。しかし、当時の地球人の技術力の無さで完成前に爆発させてしまったとなっています。その宇宙人の名前がバビルであり、その能力を受け継ぐ山野浩一がバビル2世なのです。 ちなみに、私がよく参考にするフリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」では、『「バビル2世」の中では「バビルの塔」と呼ばれている』と書いてありますが、少なくとも原作コミック版ではそれは間違いです。「バビル2世」の中でも「バベルの塔」は「バベルの塔」と呼ばれています。 もともとの話は、ご存知の通り聖書で語られているもので、旧約聖書の「創世記」に書かれています。その話は、最後に杉下右京(水谷豊)が亀山薫(寺脇康文)にこう語っています。 「昔、世界の言語は一つだったそうです。人々は高い塔を作って住もうとしましたが、神の怒りに触れ、言葉を通じなくされました。お互いを理解できなくなった人々は散り散りになってしまったというお話です。ところが今日、言葉をしゃべらないひとりの少女によって、バラバラだった人々の心が、あのように・・・」と。 |
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2006年12月22日(金)
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たそがれ清兵衛 2006年12月22日(金)日本テレビ系金曜ロードショー
2002年松竹・日本テレビ他作品。 寅さん以後、山田洋次監督が長い間構想を練って作り上げた時代劇の第一作。第二作が「隠し剣 鬼の爪」、第三作が現在公開されている「武士の一分」。 「武士の一分」をきっかけにこの三部作を見てみたいと思っていたのですが、ちょうど今日の金曜ロードショーで「たそがれ清兵衛」が放送されましたので観てみました。 野心みなぎり名声を求める男達には、こういう男はどう映るのでしょうか。まわりの目や評価に惑わされずに、自分がやるべきことを淡々と行う。そのやるべきことというのは、仕事ではなく家族を守ること。 家族を守るためには、今の身分に甘んじることなくもっと積極的に頑張ればとも思ってしまいますが、それは今の時代の考え方なんでしょう。身分の差というものが歴然と存在し、それが大きな変化を受け入れない時代には、分相応という考え方が基本にあるのだと思います。 剣の腕は秀でているにもかかわらずその事を隠し、毎日たそがれ時には家に帰り、生活のために内職に励む日々を淡々と送る清兵衛。身近には自分を幼い頃から慕ってくれる女性がいるにもかかわらず、自分の身分を考えて成就しようとしない。 そういう生き方は、見方によっては純粋でとても美しい生き方だとは思いますが、私にはできそうにもありません。自分に人より秀でた才能があれば、それを誇示したくなるでしょうし、自分を慕う女性がいればうぬぼれもするでしょう。だからこそ、それを受け入れず多くを望まず家族だけを見て生きる清兵衛の生き方が男らしく思え、切なく思えてしまうのかも知れません。 男の生き方は、切なくて悲しいくらいに誠実で一途な方が、人の心を打つのかも知れません。現代は、そういう生き方をバカにし、その良さを忘れていることを、こういう映画で伝えたいのでしょうか。 人を蹴落として、家族まで犠牲にして、社会のルールまで無視して、経済的な裕福さをとことん目指す現代の男たち。一方、清兵衛のように毎日毎日人にこき使われながら、家族を守るために一生懸命生きるサラリーマンの男たち。 心の真の穏やかさは、どちらの生き方の結果の中にあるのでしょうね。 |
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2006年12月17日(日)
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今日は家族で近くのMOVEX三好へ映画を見に行きました。
私と奥さんは「デスノート the Last name」、上と下の娘は「劇場版どうぶつの森」、真ん中の娘は「劇場版BLEACH ブリーチ」と好き勝手バラバラに見たいものを見ることにしました。 奥さんが午前中にチケットを買いに行ったのですが、夕方の上映時間にやっと希望の席を確保できるという盛況ぶり。映画は旬に映画館で見るということが、多くの人に定着してきたようです。 デスノート the Last name 2006年12月17日(日)MOVEX三好 Theatre 2 週刊少年ジャンプに連載されたコミックが原作ですが、私は全然知りませんでした。デスノートを初めて知ったのは、後編であるこの作品の公開に際し、前編がテレビ放映されたのを見た時です。 前編を見たときに感じたのは、ストーリの面白さと、夜神月(やがみライトと読む)ことキラ(藤原竜也)とICPOが東京に送り込んだL(エル)(松山ケンイチ)のキャラクターの魅力。特にストーリは、緻密な関連付けがなされていて、そうだったのかという意外さがあるし、キラとエルの頭脳戦も文句無く楽しめました。もちろん、コミックを私は見ていないので、それと比較すればいろんな意見があるのでしょう。素晴らしいコミックを映像化すると、コミックに心酔したファンはガッカリすることが多いのはよくあることです。 前編のそういう印象から、ぜひ後編も見たいという思いが強くなって、同じ見るなら今回は劇場で見ようと思って、今日見てきたというわけなのです。 期待にたがわず、後編である「the Last name」もその面白さは継続されていました。特にL(エル)の存在が人間的な部分も含めて魅力を増しているように感じました。しかし、あえて前編と比較すると、後編は前編ほどのインパクトはなかったように思います。 何故なのか考えてもどこがどうだという致命的な部分は感じないのですが、たぶん、デスノートと死神というものに慣れてしまい、前編で初めて出会った新鮮さが無かったということもあると思います。 あえて物足りなかったところを言うならば、後編は全体的にトリックを複雑にこねくり回しすぎのように思え、その結果、偶然性に頼っている部分が多いように感じます。それが頭脳戦のリアリティに欠けるんじゃないかと思いました。 例えば、海砂(戸田恵梨香)が夜にキラが埋めたデスノートを取りにいく場面も、突然耳元で告げたことにもかかわらず、埋めた場所に行き間違いなく掘り当てるというのも、ホントかいなと思ってしまいます。ライトの綿密な読みではあるとしても、高田清美(片瀬那奈)の行動もライトに都合よく進みすぎるところがあります。 とは言いつつ、複雑で少しでも油断するとわからなくなってしまいそうなテンポ良い流れ(私は途中でデスノートが何冊あるのか混乱してしまいました)、登場人物のいろんな意味での魅力、予想を裏切るどんでん返しのラストシーンなど、娯楽映画として充分楽しめる内容ではあります。2時間20分があっという間に終わってしまったのは、私が充分楽しめた証拠だと思います。 一番の見所であり書き留めておきたいのは、そのラストシーンなのですが、これはまだ見ていない方への礼儀として、つらつらと書くことはやめておきます。 ライトではなく私のところで死神リュークがデスノートを落としたとしたら・・・、私もたぶん、ライトのような使い方に正義としての「美」を感じてしまうだろうなと思います。必殺仕掛人や必殺仕置人、桃太郎侍などが人気になったように、世の中がしくみとして成敗できない悪を懲らしめるというのは、庶民の憧れですからね。 つまり、『人のため平和のためには、悪い人間を抹殺しても良い。』という理屈。 しかし、それを「美」と感じないのがL(エル)であり、ライトの父親、夜神総一郎(鹿賀丈史)。 『人のため平和のためであっても、人の命をむやみに奪うことは許されない』 この考えの違いが、戦争に向かうのか戦争を回避するのかという一線なのかも知れません。世論がキラをたたえ神と呼ぶとするならば、それは恐ろしいことなのかも知れません。 どちらの正義が正しい正義なのかは自明です。にもかかわらず、最後までそこに疑問を投げかけるような台詞をライトの妹・夜神粧裕(満島ひかり)に喋らせているところに、現在の社会の問題の根の深さを訴えているように思います。 ところで、一番魅力的なキャラクターであったL(エル)が、スピンオフ企画として主人公になった映画が来年製作されるようです。公開はさ来年のようですが、どんな物語になるのか、ちょっと楽しみです。 |
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2006年12月17日(日)
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私の頭の中の消しゴム 2006年12月16日(土)フジテレビ系土曜プレミアム
2004年韓国作品。日本上映は2005年。泣ける映画は好きなのでずっと気にはなっていた映画です。テレビ放映なので吹き替え版。スジン(チョン・ウソン)の声は谷原章介、チョルス(ソン・イェジン)の声は小西真奈美です。原作は、よみうりテレビのドラマ「Pure Soul〜君が僕を忘れても〜」。 実は映画よりも先に、GYAOのオリジナルドラマ「私の頭の中の消しゴム アナザーレター」(30分/1話、6話完結)を見てしまっています。最終回を見逃しているため、私の中では完結した見方ではないのですが、毎回かなり泣かせてくれました。現在の恋人・周一(袴田吉彦)と過去の恋人・圭介(田中圭)との間を、記憶が行ったり来たりする中で賢明に周一を愛そうとする主人公・紗季(香稚由宇)。辛い思いの中でそれぞれが紗季のことを思い、切ない行動を選んでいく。それぞれの登場人物が優しく暖かく、それが余計にそれぞれの残酷な運命を悲しくさせます。 そういう展開を期待していたせいか、韓国映画「私の頭の中の消しゴム」はかなり物足りなく感じてしまいました。最初に見ればそれなりに感動したとは思いますが、いくつかの点で気になるところが残ってしまいました。 ・スジンの性格の一貫性がわかりにくい。 (優しいのか気弱なのかふてぶてしいのか暴力的なのか・・・。) ・チョルスの記憶が無くなる中での、前の恋人のかかわり方が希薄。 ・同じく記憶が無くなる過程の記憶の混乱の表現が表面的で短い。 ・家族の愛がなんとなく日本的ではなく、理解しにくい部分がある。 ・場面の切り替えが煩雑で、かつ、ひとつひとつの場面が中途半端。 などが気になる大きなところでしょうか。もちろん私の主観です。 それにしても、ソン・イェジンはかわいいですね。そういう見方ばかりしていたのが感動が少なかった原因かも知れません。 その中で私が一番心にぐっときたのは、チョルスが家を出た時に残しておいた手紙をスジンが読む場面。チョルスの声でチョルスが手紙を書いたときの心情で読まれるのですが、スジンを忘れたくないという必死の気持ちが矢のように出てくる文章はとても心打つものでした。 この映画で私たちが考えさせられるものは、人間の肉体と精神の死というものです。見守る側はどちらが辛いものなんでしょう。その現実にまだ直面したことのない私は、正直よくわかりません。精神が死んでも肉体が生きていてくれるだけでいいと思えて、その精神が死んだ肉体を愛せるのか、難しいことです。 自分の記憶が消えていくという怖さも実感として今はよくわかりません。ただ、ちょっとしたことを思い出せなかったり忘れてしまったということがあれば、苛立ちや焦りを感じてしまうというのは日常よくありますから、それが大きく押し寄せてくるとしたら、自分がとてつもない不安の中に沈むだろうというのは想像できます。 どんな状況になろうとも、人が人を愛し続け、相手を思いやる行動を選ぶ。 スジンやチョルスのような生き方、私はできるのでしょうか。 なお、GYAOの「私の頭の中の消しゴム アナザーレター」は現在、再配信中です。私も見逃した最終回を今度は見逃さないようにしたいと思います。 |


